2009年04月15日

街道かわら版-善光寺街道通信紙-


先日、日曜日の日、麻積村に行きました。
目的は善光寺街道を歩く打ち合わせなんですが・・・
善光寺街道を祈りの道として再生する活動をされている小瀬佳彦さんに
お会いしてきました。小瀬さんは善光寺街道協議会事務局代表です。
驚くべきは信州Ryo-ma倶楽部の世話人・三澤広樹さんの義理のお兄様。
世の中、なんて狭いのでしょうか。驚きました☆
その場では、小瀬さんから善光寺街道を歩く価値などをお話いただいたのですが
興味深いお話が次から次へと飛び出して来ました。

街道かわら版-善光寺街道通信紙-

究極はそこでいただいた「街道かわら版」を読んでみてそこに書いてあったことなのですが・・・
善光寺寿量院住職の小山健英さんの講演の内容です。

以下、抜粋
自分自身に期待しすぎていないか
私たちの人生は悲劇です。メロドラマでも喜劇でもない。常に豊かな明日があるという生き方は間違いです。この世の中で生きていく私たちは「悲しい存在」なのです。にもかかわらず、私たちは自分自身に期待し過ぎていないか。自分に期待するということは他人にも社会にも期待しているということになります。「善光寺に来れば死んだ人に会えるんじゃないか」そういう思いで歩いたのが祈りの道なんです。その人たちを迎えて、送りだした、街道に住む人たちの素朴で美しい心。そういうところに私たちの祈りは発生してきた。ここにには古くからの生き死にの積み重ねがあり祈りがあった。」

 「私たちは自分に期待するあまり、豊かに、大きく、強く、美しくと望みます。はたして縄文人や善光寺へと歩いた人はそんなことを考えたか。私たちは日常は貧しくて小さくて、弱くて、醜いもの。それであたりまえです。それに対して豊かで、強く、大きく、美しくと望むのを"夢"と言います。人が描く夢を"儚い(はかない)"というのです。」

みなさん、どうでしょうか。
私はこのお話をみなさんに押し付けるということではなくどう感じられるのか興味があります。

私の率直な感想は「昔の人たちが善光寺を目指し歩くというのはとてもシンプルな祈りだった」
ということです。人の生き死にが日常の中にあり、死者、先祖たちへの想いが普通にあった時代の人の祈り・・・。
私はこのお話を読んでかなり鮮明になってきたような気がします。
私たち信州人の役割っていうのかな?!

私はこのシンプルな祈りの心・・・今こそ大切になってきたと感じます。
私自身に、そして信州の街道・宿場にその素朴な祈りの心が帰ってくるように・・・
この秋、善光寺街道80kmを歩き、善光寺を詣でたいと思います。


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Posted by 葦木啓夏(Hiroka Ashiki) at 07:41│Comments(4)日々の活動
この記事へのコメント
夢は儚いとは思いません

真っ直ぐ夢見た人に心を救われたから。その人の夢見る姿勢が凄い好きだった

「眩しすぎて本当に眼が痛くて嫌になる、でもこれを見ないと生きてる気がしない、自分が自分で無くなる」

そうよく言っていた、自分に期待とかじゃなくて、自分を信じてた
それは簡単に言える信じるって言葉じゃなくて、今思えば裏切られてもそれすら気づかないレベルで信じていた。

そして、その人との出会いがAKIの始まりで・・・supernovaとなり本当の輝きを心で見て、そしてしばらくして美咲さんに出会った。

だから俺は人の夢に照らされて歩いてきた。

人の夢・・・・一人の人としてだけで周り見ず見た夢は確かに儚いかもしれない、でも人と人の間で生まれる
「人間の見る夢」は間違いなく豊かに、大きく、強く、美しくあると信じてます。それは自分の世界だけでなくその「間」を作り出した相手との世界を
貧しくて小さくて、弱くて、醜いものだけのものにしないようにと

俺は死者に会えると言い祈るとか、神に祈る以前に
「今ある生きてる存在」これの中から本当の意味で信じる事ができるようになる事で精一杯です

たぶんこれも人に押し付けれる話では無いです。特に祈りを大切にする人には絶対に。だからこれは意見でなく、ただの独り言かもしれません
Posted by AKIAKI at 2009年04月15日 19:37
追記

人生が喜劇か悲劇か、メロドラマか

それは最後息を引き取る瞬間に見えると思う。今からその答えがあるわけないと思うし、今から解りたくもないともいえる

生きるだけ生きて最後の最後の瞬間に自分の人生を全てまとめて感じたい、もしかしたらそれは喜劇や悲劇メロドラマなんてありきたりな言葉で言い表せない物語かもしれないから
Posted by AKIAKI at 2009年04月15日 21:22
体ももつということは 太陽 空気 水 食べ物 人間関係の調和 を必要として 自分だけでは決して生きられないことから もうすでに「ばらばらではないよ」というメッセージがセットになっている状態で これをどれだけ覚えていられるかが 幸せを保って生きることの鍵だと思っています   人生:五感を通して彩やかたちを楽しむチャンスを与えられてると思います また小さい頃と今を比べると結構成長したなあと思えるので これからもどれだけ成長できるかという楽しみがあります 成長というのはミスのある不完全な人間として生まれてこないと体験できないことだと思います  夢:夢をもたないこと もつこと どちらもいいと思います ただ もった場合はその夢がかなわないと幸せになれないとか 夢を楽しみではなく幸せの条件にしてしまったときにだけ夢のかたちとの苦闘がやってくるので 夢に対しては冷静さも必要です  歩くこと:歩くことはまさにそれ自体が喜び 新しい変化 与えられた自由の実感です 
Posted by yoshiro at 2009年04月16日 14:15
「体ももつということは 太陽 空気 水 食べ物 人間関係の調和 を必要として 自分だけでは決して生きられないことから もうすでに「ばらばらではないよ」というメッセージがセットになっている状態」・・・なるほどぉ。端的な言葉で整理されていて参考になりました。

「夢:夢をもたないこと もつこと どちらもいいと思います ただ もった場合はその夢がかなわないと幸せになれないとか 夢を楽しみではなく幸せの条件にしてしまったときにだけ夢のかたちとの苦闘がやってくるので 夢に対しては冷静さも必要です  歩くこと:歩くことはまさにそれ自体が喜び 新しい変化 与えられた自由の実感です 」
・・・ここはまったく同感。


本質的には夢を持つ、夢を持たない・・・まったくどちらでもいいことなので
夢を持つ人をスター扱いしたり、自分が夢を達成したことを声高く宣言したり・・・
そういうビジネスセミナーが流行ったり、そういうリーダーが沢山出現したり、
この手の社会の風潮はちょっぴ危険!かもって個人的には思ってます。

個人的な意見ですがそれよりも・・・
数億、数百億、数千億という歴史的な功績も名誉も残せていない
無数の先人達の功績のひとつひとつへの感謝や祈りを形に出来るかかどうか。"夢"以前の大事な境目のような気がしてます。

人類が二足歩行をはじめ400万年とか。
二足歩行で長距離を移動しなくなって100年足らず。
歩くことで思い出せることっていっぱいありそう!
Posted by 篠原 at 2009年04月16日 15:09
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